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DTRのライブも無事終わり、いよいよTAIJIさんは手術へ向けて入院生活を送ることになる。2006年の12月の事である。

でもTAIJさんが入院してからの印象は別に病人になった感じはせず、むしろ個室だったんだけど部屋にはタペストリーやポスター、そして数々の楽器類などが置かれ一見ミュージシャンの部屋ではないかと思うほど病院らしさは払拭されていた。

当時DTRでDTROCKERSというブランドを立ち上げてアクセサリーを販売する話があったのでそれに向けて色々シルバーやTシャツのデザインなどをやっていた記憶がある。当時色々デザインを見せてもらったのだけど、凄く繊細な描写でどれもデザインされていて、この時初めて音楽以外のTAIJIさんの意外な面を見る事ができたのだった。

途中外出届けを出したりして、病院の外で生活することもあったけど、入院生活はだいたい3ヶ月ぐらいだったと思う。その入院生活でも色々あった。同じ病院に入院していたパラリンピックの日本代表の女性に曲を書いてあげたり、院内で飼育しているカメと友達になったり、同じような境遇で入院しているオヤジ(山さん)と怒鳴りあったり、TAIJIさんらしい入院生活だったと思う。

でもその中で一番聞いて笑ったのはShuさんのTAIJIさんへのお見舞いで偽札100万円を持って行ったことだった。TAIJIさんは初め本物と思ったらしく、凄い勢いでお礼を言ったらしいのだが(笑)今思えばShuさんらしいなぁと思う。

2007年1月に手術が行われたのだけど、手術後自分はVictoryとブログで綴った。でもそれは今思えば早とちりだったのかもしれない。人工股関節に入れ替える手術は術後も重要で筋肉とうまく結合しなければいけないのだけど、TAIJIさんの場合それが外れるという症状が度々あって手術したからといって直ぐ良くなるとはいかなかったのである。

だから安心して歩ける状態まで少なからず時間がかかってしまったのだと思う。股関節が外れる症状は脱臼と同じで物凄い痛みが伴い、TAIJIさんも直ぐに治らない状況にストイックになってしまった事も多々あったと思う。

でも次第に落ち着き始め、まだ当分安静の生活しか送れないと言われていたようだけど退院できるまでになった。退院に日に迎えにいったのだけど、これがまた既にロックスタイルで革パンにウエスタンハットでさっきまで病室でいた人とは思えない変貌振りは圧巻だった(笑)院内からも色々な人から見送りされてたけど、その中に怒鳴りあいのケンカした山さんもいた。最後は仲良しになってる感じで微笑ましかった。

まだ完全ではないけど、退院したTAIJIさんは前向きで次なる活動に向け動き出して行くのだった。


つづく。。。














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TAIJI with HEAVENSが地下活動に入り、DTRが再始動し始めた2006年の夏頃からTAIJIさんの体に異変が起きはじめていた。

元々自分が最初にあった時には左足のじん帯を損傷していて、先にも書いた通り松葉杖での生活だった。その松葉杖も要らなくなりようやく自分で歩行出来るようになった矢先の異変だった。

病名は大腿骨頭壊死(だいたいこっとうえし)。原因はいろいろあるみたいだけど、TAIJIさんの生活スタイルから見て過去のアルコール摂取の蓄積が原因ではないかと言われていた。昔、故美空ひばりさんが同じ病気にかかったが、彼女も長年お酒好きでそれが原因と言われていたらしい。

結構昔から違和感はあったらしいのだけど、TAIJIさんは日に日に腰の痛みやそれに伴う足の負担が辛くなってきたみたいだった。今すぐ立てない状況ではないというが、後々の事考えると手術が必要と診断される。でもDTR再始動ライブを終え次のライブが既に決まっていた為手術はライブ後2007年明け頃に行う事になる。

でもそんな中TAIJIさんは前向きで足のリハビリも兼ねた運動を欠かさずやっていた。2006年9月29日の渋谷O-EASTのDTRライブを見に行かせてもらったけど、カッコ良かった。体の不安を感じさせないステージで流石だなと思った。この時確かヘヴンスでも先日WeROCKで発表した「Killer」をDTRバージョンで演奏していた記憶がある。

DTRの活動の傍らヘヴンスの方は自分とRYUTAROでよく集まって「Keep The Faith」以外の曲を作成していった。TAIJIさんが空いている時は3人で少しずつではあるけど進めていったのだった。2番目に出来た曲は「Merry Go Round」だったと思う。この曲は原曲は4ビートだったけど、TAIJIさんが疾走感が欲しいといきなりAメロから16ビートの速い曲に変わって行ったのだった(笑)メロディもこの曲は苦戦したけど自分的にもしっくり来て、最終的に決定したのが音源に入ってるバージョンである。

あと確かこの頃はTAIJIさん自身で立ち上げたT-Fenixという個人の事務所で色々やっていて当時の色々周りにいた女性スタッフの方には本当にお世話になっていたと思う。当時それぞれの活動で、みんなが必死だった状況がつい最近の事に感じるのである。

DTRの年末ライブも終わりTAIJIさんは手術の為入院する事になる。体の再起をかけて痛みを払う為の手術だったのだが、後に大変な事になるのはまだこの頃は知る余地もなかったのだった。

つづく。。。

P.S. t-blogとして2006年4月~2007年12月のTAIJIさんのFC2ブログが今でも存在するので見てみると懐かしいですよ。
http://taijifenix.blog61.fc2.com/page-20.html
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ライブが無事終わっていよいよ次はオリジナル曲でのライブを目標に活動を進めて行く事になる。

その前にライブの感想はと言うと。。自分の中ではただの勢いで真ん中に立っている学園祭みたいなボーカルでしかなかった。TAIJIさんに申し訳なく、恥ずかし思いでもう2度とあのライブ映像は見れない(苦笑)

でもそんな中、TAIJIさんは色々ダメ出しはあったものの「プレッシャーの中よく歌った」と温かい言葉をかけてくれたのだった。


新たなる活動に向けてメンバーはまだTAIJIさんと自分しかいない。実は横浜ライブに後のメンバーになるRYUTAROとTAKANARIは来ていてRYUTAROは自分と同じく音源を送ってTAIJIさんから声を掛けられた人物だと知る事になる。

ギタリストの候補はこの時例のスタジオで働いていたHALとRYUTAROだった。HALはデモ音源、RYUTAROは以前のバンド「faze」の曲をTAIJIさんは聴いていて、それぞれ会ったりもして最終的にロック色の強いRYUTAROに決定する。

書き忘れていたけどちょうど1stライブが行われる少し前(2006年4月頃)にTAIJI OFFICIAL WEB SITEが立ち上げられ、この頃からTAIJIさんの情報が盛んに発信されるようになって行った。自分のサイトも同時に立ち上がり数ヵ月後にこのブログがスタートされる事になる。これらは自分がTAIJIさんに紹介した昔の友人でもあるMIHIROという人物が作成しており、彼もTAIJIさんの復活を支えた1人であり今でも感謝している。2010年1月発売のヘヴンスの1st mini albumのジャケットも彼が手掛けている。


ヘヴンスはTAIJI、DAI、RYUTAROというラインナップで進められていくことになり、頻繁に3人で集まってオリジナル曲作成の地下活動に入る。1st mini albumの1曲目の「Keep The Faith」はTAIJI家で集まってRYUTAROが弾いていたコード進行にその場で自分が付けたボーカルメロディーをTAIJIさんが気に入ったみたいで、そのまま採用になり1番最初にできた曲でもある。

ヘヴンスがオリジナル作成している一方でTAIJIさん自身のバンドであるDTRも再始動に向けて動き始めていた。皆メンバーはそれぞれ貫禄があり大人のロッカーという印象を受けた。

そしてDTRが活動を進めて行きTAIJIさんもいよいよ本格的に動き出そうとなった時にTAIJIさんの体に異変が起こりはじめていたのだった。


つづく。。。


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