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ヘブンスは曲作りを始め、泰司さんはDTRを中心に活動を行う事となる。
でも気持ちは前向きだったと思うけど、やはり手術後なかなか手術箇所が完治しない状況が続き精神的には不安定が続く感だった。周囲の者にその不安や苛立ちを結構出していく中、環境も変えたいのか生活の場を色々変えたりしていた。その中の1つが自分の家で、日数にして1ヶ月ぐらいであろうか、狭いワンルームの部屋だったけどTAIJIさんは自分と1つ屋根の下で同居する事になったのだ。 そこでは色々な事が起こったけど忘れられない思い出となっている。 その生活で知ったのは前々から聞いていたTAIJIさんの料理ネタであり、一緒に住んでいた期間小さなキッチンで材料や調味料は限られるのだが、見事なほどに和を中心とした煮物、和え物の創作料理が出来上がってくるのだ。味は勿論なのだが、見た目も重要と言ってお皿にこだわりながら盛ってくれた。 TAIJIさんは音楽も同様「どんなにカッコいい音楽をやっても、見た目が駄目なら魅力が無い」とよく言っていたが、それに通じる物かなって思ったりした。でもあの数々のバリエーションの料理には感動すら覚えた。 近所ネタでは近くのファミリーマートの店長、店員さんがTAIJIさんファンで行く度に歓迎されて、何かあれば店舗限定でポスターなり宣伝なりしてくれると温かい言葉を掛けてもらっていた。ちょうどその頃そのファミリーマートで葉巻が色々置いてあったりしてTAIJIさんはそれにはまってよく買うようになり、葉巻をくわえた写真を所々で掲載するようになっていたと思う。 音楽の方ではTAIJIさんが幾つかの機材を持ち込んだので足の踏み場も無いぐらいだったけど、TAIJIさんのプレイを間近で体感できて色々勉強させてもらえる期間でもあった。DTRは勿論の事だけどヘブンスの曲も少しずつ出来上がってきたのだった。ちょうどヘブンスのミニアルバム曲に入っている「Freeze」は確かこの頃、何もテーマも決めずその時の気分で偶然できたフレーズで「何かカッコいいの出来たから聴いてみてと」TAIJIさんが言ったのを覚えている。 あと今までTAIJIさんと行動を共にして感じたのだけど、TAIJIさんの感情が乱れたり、怒りモードになると何かが壊れるという現象が多々あった(笑) それもパソコン、楽器、家のものなどさまざまだった。怪奇現象すら信じない自分でもおかしいなと思うぐらい。 これは自分の家に来て初の壊れた電球。 ユニットバスで足が調子悪くて自分自身に怒ってみたみたいなんだけど、バスから出ると「ゴメンDAI!怒ったから電球切れちゃった」と笑いながら暗くなったユニットバスからTAIJIさんは出てきた。「これお前の家で1発目だから記念に持ってろ!!」とTAIJIサインと記念すべき1発目と書いて渡された。その時からこれは捨てられず棚の引き出しの中に入れてあった。 出来事はまだまだ沢山あるけど、これを書いていると話が終わらなくなるので(笑) でもこの同居生活で色々体験させて貰ったし、TAIJIさんの色々な面を見れる事になった。 その後、自分同様他の音楽友達の家を転々として、また自らの自宅へ戻るのだった。 常に音楽仲間やバンドマンと触れ合っていたのか、その頃にはだいぶ精神的にも安定し体も次第に良いほうへ向かっていたと思う。 つづく。。。 PR
DTRのライブも無事終わり、いよいよTAIJIさんは手術へ向けて入院生活を送ることになる。2006年の12月の事である。
でもTAIJさんが入院してからの印象は別に病人になった感じはせず、むしろ個室だったんだけど部屋にはタペストリーやポスター、そして数々の楽器類などが置かれ一見ミュージシャンの部屋ではないかと思うほど病院らしさは払拭されていた。 当時DTRでDTROCKERSというブランドを立ち上げてアクセサリーを販売する話があったのでそれに向けて色々シルバーやTシャツのデザインなどをやっていた記憶がある。当時色々デザインを見せてもらったのだけど、凄く繊細な描写でどれもデザインされていて、この時初めて音楽以外のTAIJIさんの意外な面を見る事ができたのだった。 途中外出届けを出したりして、病院の外で生活することもあったけど、入院生活はだいたい3ヶ月ぐらいだったと思う。その入院生活でも色々あった。同じ病院に入院していたパラリンピックの日本代表の女性に曲を書いてあげたり、院内で飼育しているカメと友達になったり、同じような境遇で入院しているオヤジ(山さん)と怒鳴りあったり、TAIJIさんらしい入院生活だったと思う。 でもその中で一番聞いて笑ったのはShuさんのTAIJIさんへのお見舞いで偽札100万円を持って行ったことだった。TAIJIさんは初め本物と思ったらしく、凄い勢いでお礼を言ったらしいのだが(笑)今思えばShuさんらしいなぁと思う。 2007年1月に手術が行われたのだけど、手術後自分はVictoryとブログで綴った。でもそれは今思えば早とちりだったのかもしれない。人工股関節に入れ替える手術は術後も重要で筋肉とうまく結合しなければいけないのだけど、TAIJIさんの場合それが外れるという症状が度々あって手術したからといって直ぐ良くなるとはいかなかったのである。 だから安心して歩ける状態まで少なからず時間がかかってしまったのだと思う。股関節が外れる症状は脱臼と同じで物凄い痛みが伴い、TAIJIさんも直ぐに治らない状況にストイックになってしまった事も多々あったと思う。 でも次第に落ち着き始め、まだ当分安静の生活しか送れないと言われていたようだけど退院できるまでになった。退院に日に迎えにいったのだけど、これがまた既にロックスタイルで革パンにウエスタンハットでさっきまで病室でいた人とは思えない変貌振りは圧巻だった(笑)院内からも色々な人から見送りされてたけど、その中に怒鳴りあいのケンカした山さんもいた。最後は仲良しになってる感じで微笑ましかった。 まだ完全ではないけど、退院したTAIJIさんは前向きで次なる活動に向け動き出して行くのだった。 つづく。。。
TAIJI with HEAVENSが地下活動に入り、DTRが再始動し始めた2006年の夏頃からTAIJIさんの体に異変が起きはじめていた。
元々自分が最初にあった時には左足のじん帯を損傷していて、先にも書いた通り松葉杖での生活だった。その松葉杖も要らなくなりようやく自分で歩行出来るようになった矢先の異変だった。 病名は大腿骨頭壊死(だいたいこっとうえし)。原因はいろいろあるみたいだけど、TAIJIさんの生活スタイルから見て過去のアルコール摂取の蓄積が原因ではないかと言われていた。昔、故美空ひばりさんが同じ病気にかかったが、彼女も長年お酒好きでそれが原因と言われていたらしい。 結構昔から違和感はあったらしいのだけど、TAIJIさんは日に日に腰の痛みやそれに伴う足の負担が辛くなってきたみたいだった。今すぐ立てない状況ではないというが、後々の事考えると手術が必要と診断される。でもDTR再始動ライブを終え次のライブが既に決まっていた為手術はライブ後2007年明け頃に行う事になる。 でもそんな中TAIJIさんは前向きで足のリハビリも兼ねた運動を欠かさずやっていた。2006年9月29日の渋谷O-EASTのDTRライブを見に行かせてもらったけど、カッコ良かった。体の不安を感じさせないステージで流石だなと思った。この時確かヘヴンスでも先日WeROCKで発表した「Killer」をDTRバージョンで演奏していた記憶がある。 DTRの活動の傍らヘヴンスの方は自分とRYUTAROでよく集まって「Keep The Faith」以外の曲を作成していった。TAIJIさんが空いている時は3人で少しずつではあるけど進めていったのだった。2番目に出来た曲は「Merry Go Round」だったと思う。この曲は原曲は4ビートだったけど、TAIJIさんが疾走感が欲しいといきなりAメロから16ビートの速い曲に変わって行ったのだった(笑)メロディもこの曲は苦戦したけど自分的にもしっくり来て、最終的に決定したのが音源に入ってるバージョンである。 あと確かこの頃はTAIJIさん自身で立ち上げたT-Fenixという個人の事務所で色々やっていて当時の色々周りにいた女性スタッフの方には本当にお世話になっていたと思う。当時それぞれの活動で、みんなが必死だった状況がつい最近の事に感じるのである。 DTRの年末ライブも終わりTAIJIさんは手術の為入院する事になる。体の再起をかけて痛みを払う為の手術だったのだが、後に大変な事になるのはまだこの頃は知る余地もなかったのだった。 つづく。。。 P.S. t-blogとして2006年4月~2007年12月のTAIJIさんのFC2ブログが今でも存在するので見てみると懐かしいですよ。 http://taijifenix.blog61.fc2.com/page-20.html ■■■ |
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